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宗谷岬・宗谷丘陵(北海道遺産)

宗谷岬・宗谷丘陵(北海道遺産)

概略

「宗谷岬」は、北緯45度31分22秒に位置し、わずか43㎞彼方にサハリンを望む日本最北の岬です。岬には「日本最北端の地の碑」や「間宮林蔵の立像」、「祈りの塔」や「旧海軍望楼」など、国境のまちである宗谷(稚内)の歴史を語る上では欠かすことのできない数々のモニュメントや建造物があります。
また、「宗谷丘陵」は、今から約1万年前の氷河期にできた周氷河地形が広がっており、平成16年10月には「北海道遺産」に指定されています。

宗谷(稚内)の始まり

江戸時代以前はアイヌの人たちが北海道(蝦夷地)に住んでいましたが、本州の人達(和人)が移り住み始めたのは、江戸時代(1685年、貞享2年)に松前藩が現在の宗谷に藩主の直轄領地として宗谷場所を開設したのが始まりと言われています。
また、1869年(明治2年)7月8日、新政府は蝦夷地に開拓使を設置し、8月15日には蝦夷地を北海道と改称しました。その後、開拓使宗谷出張所が置かれましたが、余りにも広大な北海道を管理するのは難しく、全道レベルの行政機関やその出先機関、さらに町村レベルの行政機構の改廃もめまぐるしく続くことになります。
1878年(明治11年)9月8日、宗谷郡において稚内・声問・抜海・宗谷・泊内・猿払の6か村が成立し、1879年(明治12年)7月1日、宗谷村に宗谷・枝幸・利尻・礼文4群を管轄する宗谷外三郡役所の設置が決まり、同時に宗谷外五村戸長役場を発足させました。これが稚内市の始まりとされています。1897年(明治30年)11月2日には宗谷外三郡役所を廃止し、北海道宗谷支庁が設置されました。
その後、もともとは宗谷村の一部だった現在の市街地地区が稚内村として分村され、稚内村が発展し市となった後、1955年(昭和30年)に宗谷村を合併し、現在に至っています。

蝦夷地調査・樺太検分と宗谷の越冬

蝦夷地の最北に位置し樺太に対する宗谷には、たびたび幕府の調査がきており、1785年(天明5年)、1786年(天明6年)には、初めて蝦夷地を大々的に探検しています。また、1785年(天明5年)7月2日には、庵原弥六、下役引佐新兵衛、鈴木清七らが樺太を調査するため海峡を渡っており、樺太探検の先鞭となっています。そんな探検者達は、1786年の3月に極寒や水腫病により宗谷で5人の犠牲者を出しており、宗谷の寒さがどれだけ厳しいものであるか知識がなく、越冬準備にかけていたことと、アイヌ人が魚獣の生肉などを食べて彼ら独特の栄養補給ができたことに対し、菜食に慣れた和人は栄養補給ができなかったことが原因として考えられています。この後も宗谷では厳しい冬を越えられずに亡くなった方々が多く出ることとなります。
しかし、1803年(享和3年)には蘭学医の廣川解がコーヒーには水腫病に対する薬効があることを発見し、また、1856年(安政3年)には薪を燃やして暖をとるカッヘルというストーブも作られました。

ロシア船の来日と紗那襲撃事件

1800年頃になるとロシア船が日本近海に出没するようになり、1807年(文化4年)3月24日、露寇対策のため幕府は宗谷、樺太を含む西蝦夷地を直轄地としました。
1792年(寛政4年)、シベリア総督の使節アダム・ラクスマンが食料や燃料を確保するため、日本と通商条約を結ぼうと来日し、箱館に着きました。鎖国を理由に通商は拝辞しましたが、当時老中であった松平定信は今後外交を望むのあれば長崎にだけなら入港してよいという「信牌(許可証)」を与えました。
1804年(文化元年)9月6日には、ロシア皇帝の侍従長であるニコライ・レザノフが信牌を持参し、再び通商を結ぶため長崎に入港しましたが、松平定信は老中を退いており、幕府は通商を認めませんでした。これをきっかけに、レザノフはロシア皇帝の指示を待たずに日本の攻撃準備を始め、仲間のフヴォストフとダヴィドフは命令に従い、宗谷、樺太、択捉の海域で略奪行為を繰り返すこととなります。
1807年(文化4年)4月29日、フヴォストフとダヴィドフを乗せた船が紗那に現われました。当時幕府は紗那に択捉島の諸機関の元締めである会所元を置いていたため、幕府役人の他、勤番の津軽・南部両藩の藩士、医師、技術者など、多くの人々が働いており、この中には幕府に雇われ択捉島の測量と新道の開削工事に従事していた「間宮林蔵」がいました。林蔵は徹底抗戦を主張しますが、役人達には戦意がなく、ロシア人と交渉しようとしましたがロシア側はこれを無視し、いきなり交渉に近づいた日本人を撃ち殺しました。これにより動揺した日本側は、撤退を決め紗那を後にしました。この紗那襲撃事件は、身分が低く徹底抗戦を主張したが受け入れらなかった林蔵の心に深い傷を残しましたが、この悔恨を原動力として後の樺太探検を成功させます。

間宮林蔵の樺太調査

工事中のドーム
1807年(文化4年)の紗那襲撃事件の際に、徹底抗戦を主張したが戦わずして逃げることとなったことを恥辱として思っていた林蔵に、幕府から樺太探検の命が下ります。林蔵は後年、友人である山崎半蔵に「紗那での経験がなかったら樺太探検の成功は疑わしかった」と語っています。
1808年(文化5年)3月13日、林蔵は宗谷に着任し、同年4月13日、林蔵と松田伝十郎は樺太へと渡りました。林蔵は生きて再び日本の土は踏めないと覚悟し、花崗岩でできた墓碑を海岸に建て、探検への決意のほどを示して旅立ちました。この際の出港場所は現在の第二清浜地区であり、そこには「間宮林蔵渡樺出港の地の碑」があります。この記念碑の右横に祭ってある石が、林蔵自身が持参したといわれる墓石の上半分で、1958年(昭和33年)に清浜地区の浜から発見され、1959年(昭和34年)に有志らによって建立されました。
1808年(文化5年)4月17日、林蔵と松田伝十郎は樺太のシラヌシにおいて二手に分かれ、林蔵は東海岸を、伝十郎は西海岸を北へ進みましだ。伝十郎は6月19日にラッカ岬に着きましたが、それ以上は海草が腐食して海岸を歩くこともできない状況から引き返し、林蔵は北知床岬まで到達した後、波浪に翻弄されそれ以上進めずに引き返しました。その後林蔵は西海岸を北上。20日ノテトで伝十郎と再会し、もっと奥地を査察したいと伝十郎に同道を頼み、林蔵もまたラッカ岬にまで到達しています。二人の樺太踏査はこれで終わりましたが、宗谷に戻った後、直ちに林蔵はロシアの勢力範囲、樺太北東部の地図作成のため、樺太の踏査を命じられています。
同年7月13日、林蔵は再び樺太に渡り、9月3日トッショウカウまで進みましたが食糧が底をついたのと寒気に堪えかね、トンナイ(本斗)まで引き返し冬を越しました。翌1809年(文化6年)1月29日に再度北上を開始。4月9日にノテトに到着。5月8日に氷海の割れ目を縫うように北へと針路をとり4日目、樺太と大陸は距離を広げるばかり。たどり着いたのは北緯53度15分のナニヲーでした。ここにおいて樺太は大陸から続く半島ではなく、島であることが完全に立証されたのです。その後、林蔵は大陸にも渡り、7月11日にはデレンを訪れています。宗谷に戻ったのは9月18日であり、一年半に及ぶ大踏査の結果は、1830年(天保元年)にフランスの地理学者ルクルスによって「間宮海峡」として認められ、また、林蔵の樺太図はドイツの医師シーボルトが1851年(嘉永4年)に刊行した「日本陸海図帖」に載せられ、世界地図にただ一人日本人の名を残すこととなりました

大韓航空機と祈りの塔

1983年(昭和58年)9月1日、サハリン沖モネロソ島付近の海上で、ボーイング747型大韓航空機がソ連迎撃機のミサイルで撃墜され、乗客乗員合わせて全269名が亡くなりました。
この大惨事の墜落現場にもっとも近い稚内では、警察、自衛隊、海上保安部、稚内市などの関係機関がそれぞれ対策本部を設置し、領海内での機体の捜索などの対応に追われました。
稚内市は領海外での外国の事件にもかかわらず墜落現場に一番近かったことと、乗客に28名の日本人がいたため、どんな展開にも対応できるようにと当時の浜森辰雄市長の指示のもと、事件後の対応に協力しました。遺体収容のための体育館の確保や病院、火葬場、宿泊所など、様々な手配が市長主導で進められました。
この事件から2年たった1985年(昭和60年)9月1日には、遭難者の慰霊と世界の恒久平和を願って、遺族会と稚内市をはじめとする全国からの浄財をもとに、宗谷岬の高台に「祈りの塔」が建立されました。

宗谷丘陵ができるまで

宗谷丘陵は、北は宗谷岬、南は天塩川北岸に及び南北90㎞にわたりますが、宗谷付近では寒冷地を特徴づける周氷河地形が見られます。
氷河地形とは、一般的に高い山地に見られる鋭い稜線と深い谷に代表されるV字谷を想像させますが、宗谷では土が凍っては融け、融けては凍るという現象を繰り返しているうちに傾斜地で流土現象が起き、斜面の上の土が崩れ落ちて下の谷に積み重なって、尾根と斜面がなだらかで小さい谷が浅いスプーンのような地形ができました。
その後、今から約1万年前に地球最後の氷河期であるウルム氷期が終わると、雨水や川水が土砂を削って流れるようになり小さな谷がV字に刻まれ、現在のようななだらかな稜線と急な谷が入り乱れた周氷河地形ができました。このような地形は北海道のいたるところでできたとされていますが、開発などで破壊され、現在でもその美しい地形を最も顕著に見られるのは宗谷丘陵のみと言えます。

新たな観光スポット「白い道」

宗谷丘陵にある「白い道」
[宗谷丘陵にある「白い道」]
平成6年に入り、宗谷丘陵の農業用道路の整備をしていた際に、海に近いということもありアスファルトのような資材だけでなく景観にも配慮したような資材はないかと探していました。その際に当時廃棄方法に苦慮していた「ほたての貝殻」をリサイクルして利用できないかと着目しました。この貝殻を敷く方法は、ニュージーランドやスコットランドの農村部でも行われていて、宗谷丘陵の壮大な景色にも似合うと考えました。
完成までは、産業廃棄物として扱われていたほたての貝殻を敷設することは不法投棄となること、貝殻を買い取り敷設するには経費がかかるといった課題がありましたが、稚内市や稚内観光協会、稚内商工会議所や宗谷シーニックバイウェイなど関係機関の連携のもと、2011年(平成23年)に完成。緑の牧草と青い空、貝殻の白さのコントラストが美しいおよそ3㎞の「白い道」は、稚内の新たな観光スポットとなり、現在は白い道を歩きながら宗谷の景観を楽しんでもらおうとフットパスのコースにもなっています。

現在の宗谷岬と宗谷丘陵

現在、宗谷岬・宗谷丘陵には、「日本最北端の地の碑」をはじめとした宗谷(稚内)の歴史を語る上では欠かすことのできない数多くのモニュメントや建造物だけでなく、平成19年には宗谷丘陵に「宗谷岬牧場」が開かれ、安心・安全にこだわったブランド牛「宗谷黒牛」の生産も行われています。また、57基の風車を有し、57,000kwの規模を誇る風力発電所「宗谷岬ウィンドファーム」や、ほたての貝殻を粉砕して敷き詰めた「白い道」もあり、多くの観光資源がある日本最北の宗谷には、1年を通して約37万人の観光客が訪れています。

宗谷地域のモニュメント

宗谷岬公園

宗谷岬公園は、観光資源として注目され始めた1966年(昭和41年)、市によって開設された。開設当時は「宗谷岬灯台」「海軍望楼」「石柱に刻んだ最北端の地の碑」と数件の売店しかいない小規模な公園だったが、観光客の増加とともに様々なモニュメントの建立や駐車場の整備、海岸線の整備等が施され、現在の姿となっている。

日本最北端の地の碑

北緯45度31分22秒、宗谷岬の突端に位置している。1961年(昭和36年)には石柱が立っているだけだったが、1968年(昭和43年)7月10日に現在の形に建て替えられ、1988年(昭和63年)には20m沖合に移設工事が行われた。その際に緯度が1秒高くなったことはあまり知られていない。北国のシンボル北極星の一稜を象った三角錐のデザインで、中央にあるNの文字は“北”を、台座の円形は“平和と協調”を表している。

間宮林蔵の立像

1808年(文化5年)に樺太に渡り、間宮海峡を発見した林蔵の生誕200年にあたる1980年(昭和55年)7月に、彼の偉業を顕彰し、次代を担う青少年に世界にはばたく夢と勇気を培ってもらおうと建立された。

『宗谷岬』音楽碑

様々な歌手にレコード化され、NHKの「みんなの歌」でも全国に紹介された郷土の歌「宗谷岬」の音楽の碑が、「日本最北端の地の碑」にほど近い場所に建てられている。スイッチを押すとメロディーが流れる。

あけぼの像

北海道の牛乳生産量100万トン突破と飼育乳牛50万頭突破を記念し、1971年(昭和46年)7月に建立された。“天北酪農の夜明け”を象徴している。

旧海軍望楼

ロシアとの国交が悪化し始めた1902年(明治35年)に旧帝国海軍が建設。1904年(明治37年)日露戦争が勃発するとすぐに海軍無線電信所が設置され、ロシア艦隊の海峡通過を監視し、1929年(昭和4年)まで機能を果たした。稚内では、明治年代の建築物で唯一現存するもので、市の有形文化財に指定されている。

宮沢賢治文学碑

1923年(大正12年)8月、宮沢賢治が稚内港から連絡船にのり、大泊に至る際に作詩した詩が記されている。宗谷要塞重砲連隊宗谷会の人達が、僚友の霊に対する深い哀悼と平和の祈りを込めて建立し、1986年(昭和61年)10月12日に除幕式が行われた。

宗谷海域海軍戦没者慰霊碑

1980年(昭和55年)9月、樺太を含む宗谷海域の防衛中に亡くなった海軍軍人の鎮魂のために建てられた。

平和の碑

宗谷沖で日本海軍によって撃沈されたアメリカ海軍潜水艦「フワー号」の乗組員80名と、フワー号によって沈められた日本商船5隻の犠牲者690名を慰霊するため、1995年(平成7年)9月に日米合同で建立された。日米合同で慰霊碑を建立するのは、日本では初めてのこと。

世界平和の鐘

ニューヨークの国連本部の前庭に世界の恒久平和を願うシンボル“世界平和の鐘”がある。この鐘と同じものを世界中に設置し、その思想を広めようとする運動があり、この運動により設置された第1号が宗谷岬の“世界平和の鐘”で、1988年(昭和63年)6月18日に除幕された。

子育て平和の鐘

世界平和の鐘の隣に1988年(昭和63年)に建立された。稚内市は家庭、地域、国、世界の平和を願うとともに未来の平和な国際社会にはばたく子供達の健やかな成長を願って、1986年(昭和61年)に子育て平和都市を宣言している。

ラ・ペルーズの碑

1785年(天明5年)の江戸幕府による蝦夷地調査の2年後である1787年(天明7年)、世界一周をしているフランス人のラ・ペルーズが宗谷海峡を発見している。これにより、それまで地続きとされていた蝦夷本島と樺太が海によって隔てられていることがはっきりした。ラ・ペルーズが初めて宗谷海峡を通過してから220年目の2007年(平成19年)10月27日、海峡を見下ろす宗谷岬の高台に記念碑が建立された。

宗谷岬灯台

宗谷岬の高台に紅白の鮮やかな宗谷岬灯台がある。道内では3番目に建てられ、1885年(明治18年)9月25に点灯された。灯台の光は約32㎞先まで達する。

祈りの塔

1985年(昭和60年)9月1日、大韓航空機事件での遭難者の慰霊と世界平和を願い建立された。塔は、鶴が羽を広げ天空に首を持ち上げる姿をしており、事件の真相と真の平和を鶴の様に首を長くしてねがいを求める様子を表しており、19.83mある塔の高さは事故発生の1983年を、16枚の羽は遭難者の16か国の母国を、269枚の総張石は遭難者269名を表している。また、くちばしの方向は事故海域のある方角を向いており、角度は事故海域の緯度と同じ46度30分に傾けられている。

宗谷公園

稚内市の発祥の地であり、運上屋(現在の税金にあたる運上金を徴収する役所)の跡地や、稚内市発祥の地の記念碑などが建ち並んでいる。1970年(昭和45年)に歴史公園として開設された。

宗谷厳島神社

 宗谷の歴史的建造物の中で、今なお現存しているのが宗谷厳島神社。1782年(天明2年)奉納と記された「鰐口(ワニグチ)」が現存し、1781年以前に建立されたと考えられている。

宗谷護国寺

北方警備のためこの地に秋田藩士達が駐屯することになった1856年(安政3年)、蝦夷地で先に建立されていた有珠善光寺の住職が宗谷場所の協力を得て建立した幕府直轄のお寺である。1911年(明治44年)に一度焼失し、1950年(昭和25年)に現在の位置に再建された。跡地は1957年(昭和32年)に北海道文化財に指定されている。

旧藩士の墓

江戸幕府は1807年(文化4年)に最初の西蝦夷地直轄を決行し、津軽藩士が宗谷に派遣され、翌1808年(文化5年)には会津藩士が交代要員として派遣されたが、本州とは全く違う厳しい冬の寒さのため多くの死者を出した。旧藩士の墓石は全部で13基あり、会津藩3基、秋田藩2基、幕府関係者8基として祀られている。1856年(安政3年)に梨本弥五郎に従って初めて積丹島を越えてきた女性や宗谷で生まれた武士の子らの墓も含まれている。これらの墓石は、かつて点々と海岸や道端にあったものを明治時代に村民の手によって1か所に集められ、さらに1957年(昭和32年)に現在の位置に移された。

津軽藩兵詰合の記念碑

宗谷には多くの東北藩士達が派遣され、厳しい冬を耐えてきたが、ストーブや毛布のほかにも「コーヒー」が越冬に用いられた。犠牲者を出す以前からコーヒーは日本の歴史に登場していたが、宗谷にコーヒーが届いたのは多くの犠牲者を出した後だった。この碑は、コーヒーを飲むことができずに亡くなった藩士達を悼み、その後コーヒーを薬として大切に飲んだであろう先人達に思いを馳せ、1992年(平成4年)9月に除幕された。

  • 稚内港北防波堤ドーム(北海道遺産)
  • 宗谷岬・宗谷丘陵(北海道遺産)
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